今の仕事は「血のつながら親子」への支援です。
日本は「血縁」関係にとってもこだわりのある風土がある気がします。
でも児童福祉の相談関連の仕事に出会って、親子って何だろう?ってつくづく考えさせられます。
「血」のつながりがあれば、親子なのでしょうか?
「血」のつながりがなくても、日々生活を供にすれば、親子なのでしょうか?
どちらも正解で、どちらも不正解なのかもしれないです。
今日は「里親」さんの体験談を聞きました。
里子として里親家庭にやってきた時がどんなに小さくても、「真実告知」(自分たちが本当の親ではないということを里子に話すこと)が大事だとどの里親さんも話していました。
自分のルーツを知る権利が、どの子どもにもあるのだ…と。
里親さんの話を聞いて、私は…
自分の出生家族で育つことができない子どもにとって、「本当の親子」って何なのか?答えを出すのはとても難しいと思いました。でも…どの子にとっても、子どものことを真剣に考えてくれる「大人」がいつも同じ人、という安心感が必要。それが子どもたちの心を育てるのにとても大事だ!と改めて思いました。
里親と里子が不調に終わって、里親子関係を解消する、なんてことが結構あるようです。でも、たとえ最終的に不調に終わって里親と里子が「親子」や「家族」になれなくても、里子にとって「里親は自分に向き合ってくれた」ということが、「人間として成長につながっていく」という事実として、シッカリ記憶に残るのだろうと、里親さんたちの話を聞いて確信しました。
里親制度は「人間を育てる」素晴らしい社会貢献なのです。
昨年7月、チャイルドラインの活動の一環として
「絵馬展」を開催しました。
絵馬展というのは芸能人やスポーツ選手など
著名な方に絵馬を書いていただき、チャイルドラインの活動の願いでもある「子どもたちが生き生きと生きて欲しい」という大人がいることを伝えるメッセージ展のことです。
その絵馬を風見しんごさんも協力してくれていて、
とてもステキな絵馬が展示されていました。
絵馬展の準備で絵馬を飾っている時に、絵馬展の管理者から「あの絵馬は親子で書いているんですよ」と教えてもらいました。
確かによく見ると「しんご」と「えみる」という名前が
仲良く書かれています。しかも二人の字がとても似ていて…仲良しの親子なんだろうな~ということが絵馬を通して伝わってきました。
100枚ほど絵馬があったのですが、風見さんの一枚が本当にステキでとても印象に残りました。
その絵馬を書いてくれた「えみるさん」が交通事故で先日亡くなりました。
正直言って…こういう活動を理解して応援してくれているような「子どものしあわせ」を願ってくれている風見さんに
どうしてこんな不幸が起きるのだろうか?と…
ショックを受けました。
正直に生きていれば救われる世の中ではないのだろうか?とか、色々なことを考えてしまいましたけど…それでも「娘のために明るく生きていきます」と答えていた風見さんの姿に涙があふれました。
もう一度、絵馬を二人で書いてもらうことは、できなくなりましたけど、多くの大人や子どもに
「生きるって、本当はすごいことだよね」
「命って大切だよね」ということを力強く伝えるメッセージになった気がします。
絵馬展は全国でまだ開催される予定です。
ぜひぜひ多くの人に見て頂きたい!
http://www.childline.or.jp/what_new.html#6
風見さん、ありがとうございました。
そして…私も陰ながら風見さんを応援していきたいと思います。
改めて…えみるさんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
「チャイルドライン夢メッセージ展」
愛知県 名古屋市
ジャスコシティ八事店
2007年1月27日(土)28日(日)
山口県 宇部市
井筒屋百貨店イベントホール4階
2007年2月14日(水)~20日(火)
埼玉県朝霞市
朝霞市産業文化センター
2007年3月3日(土)
昨日は友人に誘われて「よく分かる憲法の話」という内容の学習会に参加してきました。
今まで憲法って「法律の上にある法律をまとめる親分」だと思っていましたけど…違うのですね~。
「法律は行政(政治家)が国民に守らせるルールで、憲法は国民が国家(政治家ともいえるかな)に守らせる理想・理念」で法律と憲法はまったく反対の作用を持つモノなのだそうです。
だから憲法は国民に守る義務があるのではなく、
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他公務員が憲法を尊重し擁護する義務を負っている(憲法99条)!
目からウロコの話が多くて、かなり面白かった。
そして今なぜ憲法9条が変えられようとしているのか?なんて
話も詳しく説明されて…なんだか怖くなってきました。
今までの憲法のどこがいけないのだろうか?
講師の人も「今まで日本が平和に暮らしてきたのは
この憲法が合ったから!」と強調していたけれど、
本当に私もそう思いました。
でもそう思わない人が増えているらしくて…
複雑な気持ちです。憲法を知らないってこんなに怖いことなのですね!子どもにも昨日の話を聞いて欲しかったけれど、
私に説明する能力が無い。悲しい~。
今日、新聞で「なぜ身内をバラバラに」という記事が載っていた。
新聞記事によると、「遺体をそのままにしておけない」「つかまりたくない」「遺棄するのに重い(特に女性)」などの事情があり、犯人の残虐性とは関係ない、ということだった。(朝日新聞より)
確かにバラバラにしないといけない事情があるのだろうけれど…。人間はすべてを手に入れられる訳ではないから、たとえば「捕まりたくない」ということと「でも重くて運べない」など、相反する現実があるときに、どちらか一方を選択するしかない。
「捕まりたくない」気持ちが勝ったら、当然そのためにどうしたら良いのか?が次の問題として浮上する…。バラバラにしてでも運び出すのか?他の人に手伝ってもらって運び出すのか?
いっそ運び出さないまま隠し通すか?
都会は「庭に埋める」ということができないので、バラバラ殺人事件が起きやすいらしい。(前述の朝日新聞)
その上、さすがに一緒に死体を運んでくれるなんて友だちはいないだろう…、結局「バラバラにするしかない」という結論になるのだろうか?
やっぱりどんなに説明されても「死体を自宅の風呂場でバラバラに切り刻む」こと自体、恐ろしくてできそうにない。
それなら捕まろう!なんて思っちゃいそうな私。
残虐というより…そういう「人間的なものに対する畏怖」の感覚がずれている気がしてならない。
そういうことができる人って、死体を「もの」に近い形で認識している気がするのだけれど。じゃなきゃ恐ろしくて死体を触わることができない。でも人間なんてその時になると「通常の感覚」がなくなるものなのかな?考えても考えても「わからない感」が募る事件が続く…。
このところ、バラバラ殺人事件が次々に起きている。
殺したいほど人を憎んだことはないけれど、
間違って人を殺すことだってあるかも?とは思う。
しかしその死体をバラバラにできるという感覚が私には
理解できない。
子どもの頃、朝起きると「三島由紀夫割腹自殺」という
大きな新聞記事とともに
三島由紀夫の首が置かれた写真が出ていて、
その恐ろしさにショックを受けたことがある。
戦場で死体が転がっている写真などもいまだに直視できない。
間違って殺人を犯すこともあるかも…と思うことは
あるけれど、そのからだをバラバラにするなんて
想像するだけでも恐ろしくて絶対できない。
世の中、どうしちゃったのだろう?
人として「当たり前」感覚がどんどんずれているのかもしれない。
世の中を騒がした詫間・小林・酒鬼薔薇事件
みんな「人を殺して自分が死にたい。生きていても仕方が無い。」と言っていたみたいだけれど
人殺し=自分殺し=唯一自分の人生を生かす方法
という逆説的な人生って何だろう?
人が狂っているというより
世の中自体狂い始めているように思う…